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前世が融けると雪が降る

たとえ、早咲き桜が散ろうとも、です。

お目通し下さり光栄です、京の拝み屋

西陣の拝み屋です。

本日4/19は、オンラインのみご予約承ります。

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体調は戻り切りませぬが、ひとまず本日より

通常営業致します。

いろいろご迷惑をおかけし、大変申し訳

ございませんでした。

そんな中、昨日はお師範の晴れの日。

コロナ禍で一年越しとなった独立披露能の

舞台がありました。

一年前、舞台延期が決まったのは退去準備で

神奈川入りしていた3月末。

映画館のロビーで報を知り、悔し泣きした

あの日を忘れたことはありません。

大切な人の想いさえ守れぬ我が身の非力さに

歯噛みしたあの日。

2度とこんな思いはしたくない、ただ

それだけを強く願い迎えた一年後。

その晴れ舞台前々日の発熱は、どれほどの

絶望感だったか……という話です。

でも、発熱がわかった時点で、決めたことが

ありました。

もし、当日の朝も解熱しなければ、舞台は

諦める。

一番あかんことは、晴れの日を台無しに

することやから。

あとは。

天の采配にお任せしよう、と。


17日丸一日、寝たり起きたりを繰り返して

神様と話をし、施療できるだけの施療を

繰り返しました。

その日の夜、平熱に戻り。

舞台当日の朝、内臓にある痛みは食べない

ことでカバーして(ありがとう、ウィダー

ゼリー)ひとまず会場へ。

外は笑えるほどの寒さでしたが、頑張りました。

食べてないから体温が上がらない、上がらない笑


舞台は、全部で4時間。

そんなに体力もお腹も持たず笑

中で喫茶室に避難し、サンドイッチを食べ。

いざ、お師範がトリを務める演目へ。

その舞台で初めて、長くお稽古で言われてきた

ことを体感したのです。


「能は、その空間に情景を創り出す」


舞台に通い、個人稽古に通い、2年目。

舞台のたびに意識を飛ばし、気づくと眠り。

どうすればこの状態から脱却できるかを真剣に

悩んできたこの一年。

その答えを見つけられたのが、昨日でした。


お師範の演目は「石橋(しゃっきょう)」。

その舞台の上に透明にかかる石橋を見たのです。

橋が、滝が見える。

位置を変え、橋が動き、見えている。

それは、本当にある種の衝撃で、同時に

これまで意識を飛ばしていた理由を、初めて

理解できました。

脳が想像力を処理できなかったから。

この現象に近いことはこれまでにもあり。

大林監督の「海辺の映画館」を観た後も

やはり数日ダメでした。

起きた現象が腑に落とせない、故に内臓が

不調を訴える、という、ね。


舞台後も内臓の不調は続き。

今朝いつも通り朝の晴明神社詣でで、無事

公演ができたこと、観に行けたことの

お礼を言った帰り道、気づいたのです。

わたしのしたかったことは、これ

だったのか、と。


通訳をするたびに、言われてきたことが

ありました。

「えみちゃんみたいに、わたしも会いたい」

えみこが口寄せしない理由がここにあります。

震災後一時口寄せをしていたことがあり、

そのとき、目の前の依頼人が言いました。

「もう、帰っちゃうの?」

それを聴いたわたしは、いつか入らせたままに

されて消されてしまう、と、心底怯えたのを

覚えています。

依頼人への信頼感を失ったわたしは以後

一切の口寄せを辞めました。

同時に人間は怖いものなのだと認識しました。

誰だって命の危険を感じれば、きっとそう

なります。

過去には実際にそうして、あやめようとした

人たちがあの海の街にはいたのですから。


それでも、目の前の依頼人の大半はいい人。

泣きながら故人とお話をし、お帰りになる。

なぜ彼らを会わせてあげられないのか、

わたしがどれだけの力を持てば、それが

叶うのか。

震災後完全復帰した2015年から6年間、

それは悩みの種でした。

その答えが、実は能にあったのです。


能楽師は、常に舞台に情景を創り出します。

それを観れるかどうかは、観客に委ねられて

いる。

なんだ、観れないじゃないか、と辞めるも自由。

観るまで諦めない、と、通い続けるも自由。

でも「観えるように舞え」は、あり得ない。

なぜなら、観えるひとにはちゃんと観えて

いるのだから。

そうするために能楽師と言われる人たちが

どんな風に舞台に上がるのか、その一端を

垣間見、学ぶ3年だった。

その中でいまのお師範に出会い、社中入りを

決めて足掛け2年。

ようやく、わずかに景色が観えた。

そこで気づくわけです、観たいと思わない

人に観せられる景色など、この世にない

のだ、と。


「会わせてくれると、言ったじゃないか!」

そう言った人に限って、なにも受け取らない。

なにも言わない方ほど「あの口調は、まさに

父です」と、涙ぐまれる。

つまり生前のご縁以上の情景は、わたしには

生み出せない。

脳は記憶を美化するから、そこを求めて

お越しになるけれど、そんな虚構は黄泉には

通用しない。

なぜならそこには、真実しか存在できないから。


はるか昔は、小さなことで命を落としました。

祈祷師なら、祈祷が外れたら処刑。

力があっても、利用されて命を落とす。

相手の自己責任など、問える時代ではなかった。

「石橋」に出てくる2頭の獅子は文殊菩薩の愛獣だ

そうで、小さき虫を喰らうにも全力で挑む

獅子なのだとか。

あの橋の向こうに渡れるのは高僧だけ。

でも、その橋が観られただけでも、よかったの

かもしれない。

「お前の通訳は、能のようなものだ」と

教えて頂けたのだから。


昨日は、岐阜で降雪があったようで。

いつぞやの前世が融けたのかな。

前世が融けると雪が降ります。

これは、前世師の経験則。

貴方の前世も、融けましたか?

もし融けたなら、新たな世界の幕開けですね。

ぜひ、余すことなく味わってください。

わたしも、楽しんで伝えていこう。

お能のように黄泉を観せられる通詞人の世界を。